偏頭痛の薬って仕組みが分からないから怖いよね
研究室の同期に,アニメと漫画に詳しい奴がいる. 知識の数がステータスだと思っている典型的な人間で,会話はいつもスペック競争の様相を呈していた.
サブカル(という表現は大嫌いだが,コンテンツとかカルチャーみたいなくくりはもっと嫌いなので今回はサブカルにする)好きには何種類か存在する.
- サブカル好きな自分に酔っているタイプ
コンテンツそのものより,自分の知識量を見せつけることに快感を得ている. 数字とデータを並べるのが仕事で,対話ではなくスペック表の提示会でしかない. - サブカルを心から楽しんでいるタイプ
私が出会ったのは大学の軽音サークルの後輩だけだった. 単なる好き嫌いのレベルを超え,作品を咀嚼して多角的に批評の言葉を重ねていた. 良いところを肯定しつつ,悪いところを批判する. 自分が勧めた音源や漫画は必ず体験し,寸評を送ってくれる. 今は任天堂の音響チームで働いているらしい. - サブカルを語りたくないタイプ
言葉にすれば陳腐化すると思っているのか,自分の心象を隠す連中. 自分はこれ. 何が好きで何が嫌いかは最も自分の感性に近い話であり,サブカルごときの趣味で自分を分かった風に話されるのは不愉快だと思う.
サブカル好きな自分に酔っているタイプはいくらでもいる. 自己承認欲求が透けて見える. スペック表を提示しているときこそ自分の価値を見出していて,その知識をアップデートしているときに初めて自尊心が満たされるのだと思う. 自分では何も生み出さないのに中途半端なサブカル(笑)知識を Twitter で披露している自分をどう思っているのだろうか
一方で,後輩のように批評眼を持った態度は,サブカルを娯楽や趣味の域から引き上げ,思索の場へと消化させている. 作品そのものを検証対象とし,批評精神で臨むその精神は,コンテンツへのリスペクトと同時に自己洞察の場のようにみえる.
語りたくないタイプは,言葉の限界を承知しつつ,体験そのものを尊重している. 面白い人間ではないと思う. 言語化が陳腐化を導くとは思っていないが,やはりその作品を言語化するのは苦手に思う. 一方で,自分の価値観を構成するにはたくさんコンテンツを見ることが大事だが,見て捨てて,読んで捨ててを繰り返しているだけでは時間の浪費になる. 作品の詳細を覚えている必要は全くなく,自分がその作品を読んでどう思ったかを言語化して,残しておくことが大事だと思う. なので最近はログ形式で自分の記録を残そうとしている.
昔は(といっても去年くらい)他人との会話ではなるべくパターンを分けようとしていた. 酔っているタイプと話すときにはたいてい知らない風を装う. 自分は知らない側の人間であることを相手に伝える. もし相手が何かをオススメしてきたらそれは次の日には見て,感想を伝える. ただ自分があくまでこう思っているだけで,相手にどう伝わっているかは分からない. なので最近は意識してサブカルの土俵に入らないようにしている. 京アニとか今クールのアニメの話をしていれば(相手がしてくれれば)大抵の会話は乗り越えることができる.
サブカルは今や巨大なマーケットになっていると思う. Twitter や YouTube,生成 AI が拍車をかけて玉石混交の様相を呈している. 誰もが批評家を名乗り,誰もがソムリエ気取りでタグを並べている. この自体に心から震える体験がどれくらい残っているのだろうかと思う. 大学生のときに音楽とか漫画とかゲームを創作していたのはこれが理由でもある
というかこんな考えしてるから生きづらいんだよな
酔えるようになったら生きやすいんだろうな